
品格そして魅力あるクラブへ
私の履歴書 誕生編
今年度が始まって早くも二か月が過ぎましたが、まだ自己紹介をしておりませんでした。遅ればせながら、少しお話しさせていただきます。
髭を蓄え、どこか偉そうな風貌のせいか、裕福な家庭の出身と誤解されることもありますが、実際はまったく異なります。その誤解を解く意味でも、日経新聞の「私の履歴書」にならって、少し自分の歩みを振り返ってみたいと思います。
・幼少期
私は昭和39 年、大分市にて、建具職人の父と洋裁師の母のもとに生まれました。父は現在の高専の裏手、東原に住んでいましたが、戦時中は近隣に軍の施設があったため、挾間町朴木へ疎開したそうです。幼少期から心臓に疾患があり、九州大学病院まで治療に通っていましたが、当時の医療では完治は難しかったようです。
母は陸軍関係の祖父の仕事の都合で満州に生まれ、幼少期は裕福な暮らしをしていたそうです。敗戦時には自宅の床下に金銭を埋め、髪を剃って引き揚げてきたという話をよく聞かされました。
両親は大分で出会い、当時としては珍しい恋愛結婚をしました。父は長く生きられないかもしれないと言われていたにもかかわらず、結婚し、兄と私が誕生しました。
・父の思い出と新聞配達
父の影響で、私は物心ついた頃からバイクが大好きでした。幼い頃はやんちゃで、木刀を振り回してチャンバラごっこに夢中でした。母は二人目は女の子を望んでおり、名前も「英恵」と決めていたそうです。森英恵さんのファンだった母は、私に女の子のような格好をさせることもありました。
私が9 歳の時、父は心肥大で亡くなりました。作業場で仕事をする姿と、残された数少ない写真が父の記憶のすべてです。写真が趣味だった父は他人の写真は多く残していましたが、自身の写真はほとんどありません。
加入していた生命保険は告知義務違反で支払われず、近所の外交員のおばさんが「何かあったら私がなんとかする」と言っていた言葉が今でも忘れられません。それ以来、生命保険には不信感を抱くようになりました。
父の死後、母方の祖父母と同居するようになり、小学4 年生から高校1 年まで新聞配達を続けました。大分合同新聞から最新のクオーツ腕時計をいただいたことは、今でも嬉しい思い出です。自転車のパンク修理もこの頃に覚えました。バイト代を節約するため、自転車屋の作業を観察し、自分で修理するようになりました。
・家の火災と祖父の死
中学2 年の4 月、自宅が全焼しました。築100 年以上の木造住宅で、薪で沸かす風呂の煙突にヒビが入り、そこから
火が回って一気に燃え広がったのです。夕食後、うとうとしていたところを祖母に叩き起こされ、外に飛び出すと、すでに火の海でした。屋根全体から火柱が立ち上がる光景は、今でも鮮明に覚えています。
家は勢家町にあり、道が狭く消防車がなかなか入って来られませんでした。火災の最中、最初に来た警察官に連れられ、大分中央警察署で取り調べを受けました。若い警察官に事細かく尋問されましたが、途中で年配の警察官が「もうそれくらいでいい」と止めてくれました。母、兄、祖母もそれぞれ別々に取り調べを受けていました。
この火災で祖父が亡くなりました。脳梗塞の後遺症で足に麻痺があり、逃げ遅れたのです。母は火の中に飛び込んで助けようとしましたが、間に合いませんでした。
・高校時代とバイク事故
高校2 年の時、バイク事故を起こしました。新聞配達のために原付免許を取得し、その後こっそり中型免許も取得。新聞配達は割が悪かったため、西鉄グランドホテルで皿洗いのアルバイトを始めました。夏休みには土方のバイトも掛け持ちし、念願の400cc バイクを購入しました。
しかし、そのバイクで事故を起こし、落ち込んでいました。保険には加入しておらず、示談は10:90 で成立しました。
・19 歳 やまなみハイウェイでの横転事故
19 歳の頃、毎週のように朝5 時に出発し、瀬の本レストハウスまで約1 時間かけて走り、休憩後に野津原経由で8 時には帰宅するという無茶な遊びをしていました。その日も友人の車とバイクで競争しており、現在の道の駅ゆふいんの少し上の地点で横転事故を起こしました。
この続きは来月の例会でお話したいと思います。是非ご出席ください。